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三人の詩人たち~ベルギー・モンス・ポエトリースラムに参加して【レポート完全版】③

2015年07月31日

*「現代詩手帖」2015年8月号掲載の大島健夫+橘上+三角みづ紀「三人の詩人たち~ベルギー・モンス・ポエトリースラムに参加して」の各氏によるレポートの完全版です。「現代詩手帖」には橘氏によるリミックス版を掲載しました。各レポートの末尾にはポエトリースラムの動画も掲載しています。
①三角みづ紀レポート②大島健夫レポート


(提供=大島健夫)

◎橘上

 しまった。靴が入らない。あと20分で乗継地のイスタンブール空港に着くというのに。しかし考えてみればそれも仕方あるまい。日本を出発して12時間,座りっぱなしのまま、赤ワイン、ウイスキーのコーラ割り、LAKIなどの酒類と大量の水を飲み続けていたのだから。一応断っておくが僕は酒乱じゃないし、酒好きというわけでもない。だからこそ、こういった時は無茶飲みしてしまうのだ。顔が赤く、丸くなっている。隣をみると大島さんが少し疲れた表情で眠っている。三角さんとは現地で落ち合う予定だ。

 今年の3月27日から29日に大島健夫さん、三角みづ紀さんと三人でベルギーのモンスで行われたポエトリー・スラム「SLAMons&Friends」に参加した。
 何故僕らがベルギーのモンスに入るかというと、去年の10月にEUジャパン経由でスラム主催者のAlainから大会への出場と日本チームの選考を依頼されたのだ。この大会は、モンスで行われるポエトリースラムの国際大会で、各国の代表者三人が1チームとなって、3分間のリーディングを競い合うというもの。僕は、スロヴェニアのプトゥイ、スウェーデンのウメオと二度海外の詩祭を経験しているが、どちらも20分前後の持ち時間を与えられた文学フェスティバルで、3分間のリーディングを競い合うスラムの経験は国内外どちらもない。
 そこで海外詩祭の常連の三角みづ紀さん、スラム歴8年だが海外詩祭初経験の大島さんをメンバーに選び、互いにフォローし合うことにした。
 今にして思えば、これは日本と海外をつなぐ試みであると共に、現代詩とスラムをつなぐ試みでもあった。

 日本では家から一時間前後の東京で会う三角さんと会うのに、わざわざ24時間かけるなんて、貴重な体験。25日出発の僕と大島さんに対して、三角さんは前乗りして23日に日本を出発していたのだ。僕らのいない間、三角さんは何をしていたのだろうか? そう思ってると三角さんから僕と大島さんに「ブリュッセルに着きました」とメールが届く。

3月26日(木)
 約24時間にわたるフライトの後、ブリュッセル空港に到着。前乗りしていた三角さんが待つ空港出口に向かう。リラックスした表情で僕らを迎える三角さんからは幾度もの海外を経験した「旅慣れ」た者の余裕を感じた。そのままブリュッセル空港駅からブリュッセル中央駅へ向かう。
 中央駅で円をユーロに換金した後、マグリット美術館→マンガ博物館へと行く予定だったが換金所を探しているうちにマンガ博物館の近くに来たので予定を変更して先にマンガ博物館に行くことに。受付で一時間後に待ち合わせる約束をして各自のペースで展示をみる。名前忘れたけど、海外のブラック・ユーモアというか不条理ナンセンスの1ページマンガのパネルがあり、見入ってしまう。他にはタンタンのコーナーとイラストレーションのコーナーとヘヴィメタルっぽいマンガのコーナーもあった。ドラゴンボールの悟空(幼少時)のフィギュアもあった。
 その後マグリット美術館へ。ゆったりとした展示スペースと時代を追っての作品展示が心地いい。地元のハイスクールの生徒らしき集団が絵の前で体育座りで先生の説明を聞いているのには驚いたけど。
 マグリット美術館でランチ後、マグリット美術館と併設されている、王立美術館へ。二人は疲れたようなのでカフェで待っているとのこと。王立美術館は地上二階地下八階(確か)あり、クラッシク絵画を扱うオールドマスターから、キュレーター推薦の新進アーティストを扱うモダンミュージアムなど七つのカテゴリーに分かれている。二人との待ち合わせは一時間後なので後半は駆け足での鑑賞。ベルギーの永きにわたる美術の歴史が僕の早足の速度で立ち上がってくる。途中オールドマスターとモダンミュージアムの連絡通路に入ってるのに気付かず、ルネッサンス期の絵画を忠実にサンプリングしたモダンアートだと思っていたら、本物のルネッサンス期の絵だったこともあった。複数の時間が僕の中でリミックスされて立ち上がる。歪んだ時空に迷い込んだみたいだ。
 モンスに行く時間が迫ってきたので二人と落ち合ってからスーパーに行って電車に飛び乗る。ホントはシャガール展も観たかったんだけど時間なかったんだよな。シャガ観たかったな。シャガ。

 約一時間ほど電車に乗り主催者のアランに電話をすると、通訳のスワジキさんと一緒に迎いに来てくれるという。駅の待合室で待っていると(日本人から見ると)大柄な白人男性とスレンダーな女性がやってきた。
 Alainはおおらかなムードを持ちながらも頼りがいのある、いかにも主催者って感じの人。僕らのテキスト翻訳と通訳を担当してくれるスワジキさんは26歳でダンスが得意でマンガ好きの音楽好き。日本に興味を持ったのは「ナルト」等の日本のマンガだという。それに加えて今回は詩の翻訳にまでチャレンジ。日本ではコミュニティーの名の下ではなればばなれになったものたちがスワジキさんのなかでは当たり前に共存している。「クール・ジャパン」と「日本の文学」がここでは当たり前に結びついている。もらった名刺の裏側には日本語で「意味」とデカデカと書かれていた。

3月27日(金)
 朝九時にホテルの食堂に集合して十一時に会場のメゾンホールへ。出場者の顔合わせとルール説明。のはずが一向に始まらない。「まぁここはヨーロッパだからのんびりしてんだね」と三角さんと話す。待っている間に久谷雉氏主催の同人誌「権力の犬」の名刺サイズ版を配る。「権力の犬」の意味がわからないとイタリアの詩人が聞いてくるので「アンダードッグオブガバメントパワー」と答えると「I see」と微笑んでくれた。
 フランスチームがパーカッションとアコースティックギターを持ち込んで何やら演奏しているので、静かに鑑賞していたら、トライアングルを渡されたのでリズムに合わせて即興演奏。途中担当楽器をパーカッションに変更して演奏を続ける。楽器がひけない僕のビートはよれよれだがフランスチームは気にせず合わせてくれる。周りを見渡すと、アジア人が僕らしかいない。日本代表と思っていたらアジア代表だったようだ。

 なんとなく顔合わせが終わり、スラム会場の観客席で待っていると突然「We Will Rock You」が鳴り響きアランが登場。キメの「We Will - We Will -We Will Rock You」のところを「Slam You」と変えて盛り上げる。どうやらこのスラムのテーマソングのようだ。間奏になると出場チームのメンバー紹介、そして最後にその国の言葉で感謝を述べる。イギリスには「Thank You!」、スペインには「Gracias.」といったように。日本チームにも「アリガトウ」といってくれ改めてこのスラムに招待されたことを実感した。しかし、出場チームの各言語であいさつするのは結構な労力である。三角さんが「もうアラン優勝でいいよ」と言っていた。
 おぼつかない英語と自分流の日本語でしか話せない我々は字幕を見てもなんだかわからない。ので、必然的に声の響きやパフォーマンスを重点的に見ることに。しかし、同じような量の笑いをとっていた詩人がいても点数に開きがあったり、リズミカルなリーディングをすれば必ずしも高評価というわけでなく、何が基準なのかはよくわからなかった。バルセロナ代表のリーディングは三人とも独創的かつグルーヴィで彼らが高得点なのは至極納得いったが。また、ほとんどの詩人がテキストを持たず暗唱していた。
 長時間同じ姿勢で座っていたので疲れがたまってきた。大島さんに「出番前には戻る」と一声かけて、休憩もかねてモンスの街へ。美術館でゴッホ展があったので入る。昨日のシャガのリベンジや! 展覧会の終盤で十年以上前に東京で観た「種を撒く人」を発見。まさかモンスで再会するとは。

 会場に戻るとあと一時間で僕らの出番。大島さんから「上くんが戻らなかった時のことを考えて謝罪のスピーチも考えたよ」と言われる。
 司会の女性が「フロムトーキョー、タケオ・オーシマ」と叫ぶと会場は大盛り上がり。入場曲が流れ大島さんの出番。
 大島さんは三分ジャストの作品「うなぎ」を三分ちょうどで終わらせる抜群の安定感を見せてくれた。反応も上々で、途中間を取ってからキメのパンチラインを放つところでは大爆笑。大島さんのテキスト・リーディングもさることながら、スワさんの翻訳の的確さに舌を巻く。ええの呼んだわ!
 続いて僕の出番。大島さんが客の空気をつかんでくれたので、僕の名前がコールされるとさらなる盛り上がり。この盛り上がりに飲まれないように、ステージ上でゆっくりシャツをパンツにしまい、ネクタイを整える。これで空気は自分のものになった。詩のタイトル「前衛体育教師による生活指導」を落ちついて言う。タイトルを言っただけで軽い笑いがもれる。この時僕はやや派手目のカーディガンにネクタイというスタイルだったので。シャツをパンツにしまうだけで「前衛体育教師」風に見えるだろうという目論見があったのだが、どうやら上手くいったようだ。
 大島さんのリーディングで翻訳が伝わることもわかったし、僕はテキストを持って読むので忘れてしまう心配はないから、プレッシャーを感じずに朗々と読めた。それに対して会場の熱気は増していき最初に起きた笑いがどんどん増幅していく。かと思えば「オウ」と呻るような声を出してくれたりと、一語一語一声一声に反応してくれた。改めてモンスに歓迎されたように感じた。
 最後は三角さんの番。このスラムはリズミカルなものや笑いのあるものが圧倒的に多い。三角さんのじっくり間を取った行間の多いリーディングはアウェイのように感じた。本番前三角さんが僕に言う。「決めた。私、この空気一変させてやるよ!」それを受けて僕も「そうや三角、東洋の魔女になるんやで!」と応える。準備はバッチリだ。
 三角さんが声を出すと、会場全体の注意が三角さんに集中する。初めてみたものに驚きと興味を持つように。
 その空気の中に一言一言緩やかな風を流し込むように三角さんが朗読する。静かに聞いていたお客さんも朗読が終わると、溜め込んでいたエネルギーを放出するように会場は拍手で包まれた。三人ともそれぞれのカタチで受け入れてもらえて嬉しい。

3月28日(土)
 この日は12時半に食堂に直接集合。なので午前中にゴッホがモンスに住んでいた時の家があるらしいのでそれを見に行く。はずが、道に迷ってしまい、モンス中をうろついただけで終わった。途中アンティークショップに行ったり、ストリートカジュアルブランドで、タータンチェック柄のスウェット上下を試着したりなどしたのだが。スウェットを着てつばがまっすぐになったキャップ(NEW ERAではない)を被ると、「ラッパーに憧れる学生」に見える。詩人としてモンスにきて「ラッパーに憧れる人」になるのも因果なもんだ。

 この日大島さんは「水の上を歩く」を朗読。安定感に磨きがかかってきた。大島さんが出てくると昨日とは違う「おっ」という反応で、「日本の詩人」というよりも「タケオ・オーシマ」として認識されたようだった。僕は「花子かわいいよ。」を朗読。ゆっくりとリズムと間を楽しみながら読めた。お客さんも言葉のリフレインから生まれるリズムと意味の多層化を楽しんでいるようだった。上々の反応。三角さんの「新世界」の朗読は昨日より研ぎ澄まされていたように思う。

 スラムの後開場のスクリーンでベルギー代表のサッカーの試合が流される。ベルギーチームの点が入る度に会場の皆が盛り上がるので、ここぞとばかりに「ジーニアス」「マーベラス」「メルシー」と適当に叫ぶと割に受ける。ベルギーチームの勝利でサッカー中継は終わり、続いてDJの卓が運ばれてダンスパーティが始まる。よきところで三角さんがホテルに帰る。僕と大島さんはダンスにも参加したが。大島さんは疲れていたのか一足先に帰ってしまう。ここから僕の長い夜が始まる。タケオとミヅキは夢の中。

 皆が思い思いに踊っている中、会場の外のロビーでは、ドイツ人詩人のテレーザが仲間と一緒に談笑していた。ダンスはあんまり得意じゃないという。ダンスに疲れた僕は、そこに交じることに。
 そこで僕の詩の話題になる。「私はただ笑いを取るだけの詩は好きじゃないの。でもあなたの詩は哲学とコメディーの衝突があるから好きよ」。なるほど。皆じっくりテキストを見ていたから、同じ笑いをとるものやリズム系の詩でも点数に差が生まれたのだという当たり前のことに気づく。「スラムだからノリ重視」と無意識のうちに決めつけていた自分を恥じ、また僕の詩を細かく読んでくれたことに感謝する。ま、未だに日本では「笑わすだけの詩人」なんて言う人もいるんだけどね。って話してると「ジョーこんなとこいたのか」と踊りの輪に戻される。まさかSmells Like Teen Spirit で踊ることになるとはね。普段踊り慣れてない上に平均的な日本人体型をしている僕はヨーローッパの男たちに比べると大分華奢なため、サビでカート・コバンが叫ぶのと同時にモッシュの渦が巻き起こるとモシュの中心に流されてすぐに外にはじかれてしまう。深夜三時、酒とダンスに酔いしれながら、ダンスパーティは終了。へろへろになりながらホテルに帰る。

3月29日(日)
 九時過ぎに目覚め、昨日と別ルートでモンスを散策。大型スーパーでドナルドダック型のチョコを買ったり、教会近くまで歩いた。

 十二時半にメゾンホールに到着。準決勝が始まる前、アランが昨日のダンスのナンバーワンだと言って僕とベルギー人のサロメを檀上に呼んだ。記念品としてアランから多分中古でかったのであろう映画「グリース」のDVDを渡される。海外版だから日本じゃみれねぇよ。

 そのままサクサクっと準決勝が始まる。
 結局、準決勝で僕たちは負けた。
 勝敗とは別に、三日間を通して自分のペースでリーディングができたこと、そしてそれを受け入れてもらえたことが僕にとって大きな自信になった。正直日本よりも安定したリーディングができたし、空気もうまくつかめていたと思う。考えてみれば滑舌の悪い僕にとって、僕の朗読に合わせて、英訳・仏訳が表示される今回の環境は理想的だったとも言える。観客はリズムと音感を僕の声から、意味を字幕から受け取ればいいので、途中嚙んでしまっても、文脈が分からないということは起こらない。だって文字は嚙まないもの。

 準決勝で東京チームの敗退が決まった時に、数多くの国々が「残念だったな。でも俺は君たちが決勝でもいいと思ったよ」と声をかけてくれて嬉しかった。

 夜の決勝戦まで時間があるので、出場詩人が泊まっているホテルに行って、ロビーで談笑する。日本チームだけ、同じホテルがとれなかったようで、別のホテルに泊まっていたのだ。 
この際だからと、スロヴェニアでは誰も言ってくれなかった最もポピュラーな日本語「阪神最高や!」を、出場選手に合唱させる。スロヴェニアのリベンジや! これを言えなきゃ日本じゃ遅れてるよというと皆口々に「ハンシンサイコウヤ」と言ってくれる。ドイツ人、フランス人、ベルキー人、イタリア人、日本人が「阪神最高や!」で一つに。ひとしきり盛り上がったあとテレーザが僕に言う。
 「ところでジョー、ハンシンサイコウヤってどういう意味?」

 その後ドイツチームのテレーザ、トビー、セバスチャンと一緒にレストランで夕飯を食べる。セバスチャンが僕の分まで出してくれた。話してみると彼らは、詩だけで食べているらしく、月の半分近くは国内・外でリーディングをしているのだ。セバスチャンの友人の詩人は、詩集を五千部売ったこともあるらしい。
 食事後は、財布を忘れたというトビーを残して一足先にメゾンホールに戻る。

 決勝戦開始直前。会場は満員で立ち見の人も出ていたぐらいだ。スワジキさんの家族も来ている。
 決勝戦は白熱し、3チームが同点のため、各チームの代表者が出てきて競い合うサドンデスとなった。僕らの応援しているバルセロナチームは時間オーバーのため惜しくも2位だった。優勝したフランスチームは抜群の安定感でリーディング。サドンデスとあって上位2チームは直前で読んだ詩をもう一度読んでいた。時間オーバーしたバルセロナチームと違い、フランスチーム代表の女性は一回目よりも熱量をましてよんでいた。自分のペースを維持できたか否かが明暗を分けた。もっともバルセロナチームのリーディングはパフォーマンス色が強く、舞踊のような動きもあり運動量が多いので一概に比べられないのだが。
 優勝チームも決まり出演者全員で記念撮影。表彰式ではアントロープチームが日本チームをたたえてくれた。その後は、最後の日を惜しむように、いろんな詩人たちと歓談した。フランス代表のサラ とは、ゴダールとハーモニー・コリンの話をした。旅先あるあるで、「フランス人に会う度聞かされるのはフランス映画の悪口ばかり」というものがあるときいたことがあるが、サラはゴダールを尊敬しているようなので、旅先の風物詩に遭遇することはなかった。まぁサラはセルフ・フォトグラファーで映画監督をめざしているので当然と言えば当然だが。でもリュック・ベッソンの話題ふったら悪口言ってたかもな。ハーモニー・コリンでも「スプリング・ブレイカーズ」は嫌いだって。僕は「スプリングブレイカーズ」好きでも嫌いでもないけど、ちょっと変なところがあってそこはいいと思ってたので「スプリング・ブレイカーズ・イズ・ファニー・アンド・キュート、ア・リトル」というと微笑んでくれた。
 サラとお別れし残ったみんなで記念撮影をして散り散りに解散。
 乾いて冷たいモンスの空気に触れながらホテルまでの道を歩く。

 僕たちはたくさんの声を発し言葉を聴いた。意味の分かることにも意味の分からないことにも。モンスでの日々の意味も無意味も一つの記憶となって浮かんでは消え、また浮かび上がる。
 大島さんがスラム出身で、僕と三角さんが現代詩出身で初のスラムだなんてここの人には関係ない。
 僕が日本人で、テレーザがドイツ人で、サロメがベルギー人なんてことも関係ない。
 ここではみんなひとりひとりだ。ひとりひとりだからこそまたこうやって一緒にいれる。
 僕たちはそれぞれ違う。持っているものが違う。住んでいる場所が違う。体つきが違う。声が違う。
 顔が違う。名前が違う。でもみんなたったひとりということでは同じだ。
 たった1人がたった1人で立てる場所。その場所がモンスになろうと東京になろうと十勝になろうとかまわしない。いつだってここから始める。そうすればまた違う一人と、たくさんの一人たちと会えるから。

 翌日まる一日時間があったので、ブリュッセルを大島さんと観光した。ピエールマルコリーニのマカロンとゴディバの生いちごチョコレート掛けなどを食べて回った。最後の最後でまるで修学旅行のようだった。三角さんは一足先にスロヴェニアに向かったので、三角さんがピエールマルコリーニに言ったかどうかは僕は知らない。



 帰国してから三カ月が経ち、日本でリーディングする機会に数回恵まれた。どの舞台でも僕は凄く緊張した。スラム帰国の歓迎会の意味があった舞台でもそのムードに浸りきることはできなかった。しかし僕はこの緊張感を手放すことはないだろう。この緊張感を持ち続けている限り、モンスで出会った詩人たちと同じ空気を共有しているのだから。いつでも僕らはたったひとり。みんなと同じ、たったひとりなのだから。

準決勝1
(大島22:20~ 橘43:00~)


準決勝2
(三角14:00~)

三人の詩人たち~ベルギー・モンス・ポエトリースラムに参加して【レポート完全版】②

2015年07月31日

*「現代詩手帖」2015年8月号掲載の大島健夫+橘上+三角みづ紀「三人の詩人たち~ベルギー・モンス・ポエトリースラムに参加して」の各氏によるレポートの完全版です。「現代詩手帖」には橘氏によるリミックス版を掲載しました。各レポートの末尾にはポエトリースラムの動画も掲載しています。
①三角みづ紀レポート③橘上レポート


(撮影=大島健夫)

◎大島健夫

 今回の、「SLAMons&Friends」参加における個人的な経験について、まず、現地で遭遇した3種類の鳥類について以下に述べる。いずれもベルギーでは普通に観察できるが、日本には全く生息していないか、容易には観察できない種である。

 「モリバト」
 ハト目ハト科。ヨーロッパ全土、北アフリカ、中東と西アジアの一部に分布する。首にある白い模様と、一回り大きな体格によりカワラバトと容易に区別することができる。モンスでは公園の芝生の上などでカワラバトに混じって行動していた。肉は美味であると聞く。

 「イエスズメ」
 スズメ目スズメ科。イエスズメは南極大陸を除く世界すべての大陸に生息する、汎世界的に分布する鳥であるが、なぜか東アジアには生息しておらず、その代りに日本でおなじみのあのスズメが生息している(ちなみに、日本で見られるあのスズメは、ユーラシア大陸にしか自然分布していない)。雄は頭頂部にグレーの部分があり、雌は淡い体色をしており、どちらも容易にスズメとは区別できる。ブリュッセルでもモンスでも市街地で普通に見られた。

 「カササギ」
 スズメ目カラス科。ユーラシア大陸の広い範囲に生息しているが、日本では九州と北海道の一部に生息しているのみで、しかもこれは外国から持ち込まれたものの可能性がある。尾が長く、白と黒のコントラストが鮮やかな優雅な鳥。知能も非常に高い。ブリュッセル市街の公園で観察できた。

 さらに今回の「SLAMons&Friends」参加における個人的な経験について、印象に残っている事象について以下に述べる。

 「自分のうんこの匂いが日本とは異なっていた」
 チームメイトの三角みづ紀、橘上の二名とも健啖家であり、三名とも物が食べられず苦労するということは一切なかった。何を食べても飲んでも美味かったベルギーであるが、トイレに入り大便をすると、明らかに日本での便とは匂いが異なっていた。日頃、菜食傾向がかなり強い私が、肉食中心、また普段食べない甘いものを大量に摂取していた結果と思われる。なお、便秘はしなかった。

 「街中で見かける日本車はみな“安物”であった」
 モンスはフランスに近いだけあり、シトロエン、プジョー、ルノーが多い。駐車してあるところを覗くと、ほとんどの車はマニュアルミッションである。フォルクスワーゲンやアウディ、フィアット、アルファロメオもかなりのシェアがあり、ヒュンダイやキアの韓国車も目につく。日本車はなべて小型車ばかりで、2リッタークラス以上の車はほぼ見かけない。言わば、“安物の実用車”ばかりだ。トヨタ・アイゴやユーロシビック、小型車枠のスズキ・アルトなど、“日本では売られていない日本車”もたくさんある。90年代前半もののカローラ3ドアハッチバックというレア極まりないような車と、なぜか複数台遭遇した。一台だけ、ダイハツ・コペンを見た。

 「モンス初日の晩に足が攣った」
 この10年ばかり足が攣ったことは一度もなかったが、モンスのホテルで最初に迎えた夜、ふくらはぎが攣った。ホテルそのものはたいへんいいホテルであり、これは東京→イスタンブール→ブリュッセル→モンスというほぼ24時間の旅と、その間の水分不足が原因と思われた。トルコ航空はサービスも良くて機内食も美味かったのだが。イスタンブール空港に到着した際、橘上氏は「足がむくんで靴が入らない」とこぼしていた。

 「主催者に次第に感情移入していた」
 色々と親切にしてもらい、また現場で主催者のAlainさんやスタッフの皆さんが走り回って奮闘している姿を見るうち、だんだんと観客側より主催側に感情移入してしまい、イベント自体の成功を願っている自分がいた。特に、Alainさんも他のスタッフも、日本の高校生程度の英語しか喋れないことが判明してからはなおさらであった。がんばれAlainさん、と思った。私は日本チームの先鋒だったので、モンスで最初に詩を朗読する日本人ということになる。変なことをしでかせば、わざわざ私たちを招聘してくれたAlainさんの顔に泥を塗りかねないことになる。だから、予選一日目、朗読を終えて引き揚げてきた時、Alainさんが安心した顔で「ブラボー」と言って握手を求めてきた際には心からほっとした。

 「フランス語圏の人は英語が喋れない人も多い」
 実際、出場選手、観客を問わず、ベルギーとフランスの人たちの中には、英語など全く喋れない人がかなりいた。日本では、「フランス語圏の人はみんな英語が話せるがプライドが高いためにわざと話さない」というような認識を持っている人も多いと思うが、それはやっぱり間違いである。お互いに全く言葉が通じないというのはそれはそれで楽しいもので、フランスから車を飛ばして観戦に来たというフランス人の老夫婦に、「ジュテーム」の正しい発音を教わった。日本語だと何と言うのか、と尋ねられたので、「好きです」と教えてあげたら、老夫婦顔を見合わせて二人同時に「スキデス」と言ったのがものすごく可愛かった。

 「べつに、日本人が際立って英語を喋れないわけではない」
 そんなわけで、イギリスチームなどを除けば、他のヨーロッパチームの英語はかなり怪しげなもので、はっきり言って平均的な日本人と似たり寄ったりである。だからヨーロッパに行く日本人は、言葉に自信がないからと言ってこそこそする必要などない。重要なのは、橘上氏のように誰とでもひょこひょこ仲良くなる能力と、三角みづ紀氏のように街の空気の中で自然にふるまう能力である。ましてや同じポエトリーリーディングをやっている身、出場選手みんな話せばわかる。

 「と言うか、もう上がっただけでわかる」
 今回、出場全チーム中、アジアからの出場は我々のみ、あとは全てEU圏内であった。思うに、24チーム全72人のスラマー、その全てが、故郷に帰ればファンの方も多くいて、「なんとかのカリスマ」とか「なんとかのスター」とか言われているような人たちであったことだろう。ポエトリーリーディングをこれまで続けてくるにあたっては、一人一人に様々な背景があったはずだ。時には食べたいものも食べられないようなこともあったろうし、恋人に「私とポエトリーとどちらが大事なのか」と迫られたようなこともあったと思う。72の笑顔の裏には、これまで刻まれてきた72の物語があったはずなのだが、ステージに上がれば、誰もがたったひとりだ。たったひとり、今ここでオーディエンスの前で何事かを証明する以外に、その一つ一つの物語の次の瞬間を生きる術はない。スラムはたった三日間だが、スラマーにとってはこれまでの人生にプラスすることの三日間なのだ。スラムは勝敗を決める競技だけれど、自分の出番と対戦相手の出番が終れば、誰もが皆、友人を増やしていた。互いに全精力を尽くしたなら、友人になる以外にどんなことができるだろう。
 準決勝ラウンドが終った瞬間、我々のところに走ってきて「おまえたちはウォリアーだ、おまえたちは俺たちの中にいる、俺たちはおまえたちと一緒に決勝を戦う、だからおまえたちが戦うのと同じなのだ。見ていろ、俺たちは必ず勝つのだ」と言い、決勝で火の玉のような素晴らしいパフォーマンスを展開しながら、3秒超過による減点という紙一重過ぎる原因により準優勝に終わったバルセロナチーム。
 表彰式の後、全員の見ている前で「ほんとうに決勝にふさわしいのは日本チームだった、だからこれを贈る」といって、決勝ラウンド進出者記念品の猿の像を贈ってくれたアントワープチーム。全てがあまりにもいい瞬間だった。これは詩のイベントであり、またスポーツであり、大げさに言えば、そこにはひとりひとりがベストを尽くすことで平和に近づくという精神が宿っていた。ステージの上では誰もが自由であり、それがゆえに平等だった。
橘上、三角みづ紀両氏もまた、最高のチームメイトだった。三角さんと街を歩く時は小さなことの一つ一つが新鮮で街そのものが生きているように感じられたし、橘さんと歩く時には修学旅行中の高校生みたいにやたら楽しかった。
 大会終了後、多くの詩人たちと話す中で、そのほとんどが異口同音に口にしていた。「私は書き続ける。君も書き続けよう」
 あとはここから帰ってきた自分自身が、この先に何を生かしてゆくのか。
 この経験をさせてくれた全てに対して、心からの感謝を。

予選ラウンド2
(大島6:00~ 橘22:00~ 三角36:00~)

三人の詩人たち~ベルギー・モンス・ポエトリースラムに参加して【レポート完全版】①

2015年07月31日

*「現代詩手帖」2015年8月号掲載の大島健夫+橘上+三角みづ紀「三人の詩人たち~ベルギー・モンス・ポエトリースラムに参加して」の各氏によるレポートの完全版です。「現代詩手帖」には橘氏によるリミックス版を掲載しました。各レポートの末尾にはポエトリースラムの動画も掲載しています。
②大島健夫レポート③橘上レポート


(撮影=三角みづ紀)

◎三角みづ紀

3月23日(月)の断片
 一時間しか眠らないままリムジンバスに揺られる。臆病だからはやすぎるのだ。まだチェックインのはじまっていない成田空港、スイス航空の窓口。午前七時半、この旅は長いのにわたしがはやすぎる。快晴。コーヒーを飲んで時間を流す。一時間しか眠らないままだから機内では異様に眠くて、そのまま眠った。チューリッヒ空港に着く四時間前にようやく本をひらき、一気に読了、隣に座る白いセーターの女の子はゲームをしている。黒縁の眼鏡。
 飛行機というものがすきで、とりわけ離陸時。解放されるようになるのか、最近では離陸と同時に睡魔におそわれる。二回の機内食、本を持つ以外の時間が曖昧に記憶される。隣に恋人がいればよかったのに。
 チューリッヒ空港で一時間十分のトランジット。パスポートコントロールとセキュリティチェックをかけぬけて、はじめてのベルギー、ブリュッセルへ到着した実感もわかないままにタクシーに乗ってブレス駅近くのホテルへ。夕方の、小さな飛行機はいつも西日がつよいなか人々が静止して、いつのまにか、もう、ホテルのベッドのなかにいる。速度。
 水が飲みたくて遅くまでやっている商店をさがす。地図をあたまに記録しないままに、見つけだしたらバングラデシュからきた主人の店。移民が多いのだろうか、ホテルのフロントの男性たちはトルコ人だ。それから時間を気にしない睡眠、夜中一時に目が覚める。鳥が鳴いている。鳴き続ける。
 明け方にすこし歩く。朝がくる前の高級な静寂。できすぎた鳥が鳴く。

3月24日(火)の断片
 お腹をすかせて七時半にブレックファスト。フロントのトルコ人は優しい。クロワッサン、ハム、玉子、ヨーグルト、コーヒーを二杯。今日の行動をあらかじめ記録し、一度、部屋へ戻ってパソコンを取り出す。仕事のメールを八通。天気も調べないまま、まずは地下鉄に乗ろうと十回券を求めた。メルシー。
 知らない町にきて、こわくないふりをしながら地下鉄あるいはトラムあるいはバスに揺られるのはいつものこと。まずはセントラル駅まで行ってみて、確認してからそのまま通過する。毎日、開催されているジュ・ド・バル広場の蚤の市へ。すてきな花の刺繍のカーディガン、猫の置物、母にプレゼントする革のポーチなどを買う。散策初日にして荷物を増やして、あきれるけれどいつものこと。おもいのほか楽しくて二時間ほど物色する。青い陶器の猫の表情がいい。
 マグリッド美術館へ行こうと考えるが、あさって行くかもしれないし、もう正午も過ぎたからグラン・プラスへ。大広場。わかりやすくワッフルを食べて、わかりやすく甘くて、エアメイルのためにわかりやすい絵柄のポストカードを五枚買う。一度部屋へ戻る。歩き回っていたら、滞在しているホテルの立地が良いことに気づいた。
 恋人へインターネットの電話をかけて声を聞いてから、スーパーマーケットへ。ガス無しの水、ガス入りの水、パンとムール貝とマヨネーズをあえたもの、小さなチョコレート。ぽつぽつといった言葉の似合う、雨、はじまり。
 朗読する詩と向き合ってから葉書を書き、通りへでたらしっかりと雨。午後七時すぎ。あたりが暗くなりはじめてから旅先の夜は長い。鳥が鳴いている。慎重になるから長いのだろうか。歩き疲れて夜七時に眠って、深夜0時に起きる。雨、鳥が鳴き止む。深夜三時に再び眠りにつく。

3月25日(水)の断片
 なぜ断片かというと、眠りに関係していた。もとより眠らない子供が眠らない大人になり、旅先では断片的な睡眠しかとれなくなってしまうからだ。三時間、二時間、二時間、のように、一日でたくさん日々が過ぎるように。三時間、二時間、二時間だとしたら計七時間は眠っているのだから十分かもしれないが、深さと浅さがあって、ブリュッセルの眠りは浅くって、余計に記憶も行動も断片となってしまう。
 午前六時半に起床。朝食へ。クロワッサンとコーヒー、玉子。郵便局、スーパーマーケット、美しいアーケード、サン・ミッシェル大聖堂。昼食のために部屋へ戻る。無愛想な若いふっくらした女性の店員のいる小さなカフェでパンとコーヒーを持ち帰りの袋にいれてもらい、質素な昼に途方に暮れる。あまりに無目的だと、自分の輪郭がふやけていくみたい。
 明日、日本から橘上くんと大島健夫さんが到着することが待ち遠しい。モンスへ行き、フェスティバルがはじまることが待ち遠しい。わたしには一日一篇の詩を仕上げるくらい目的がある旅が向いているんだろうか。せめて、恋人が隣にいればよかった。町をうろつきまわるだけなんて物足りない。はやく来た理由のひとつである「その国を知りたい」のためには長く滞在する必要は、あった。十ヶ月前に訪れたパリで耳にしたフランス語を思いだす。あたらしい言葉も覚える。ブリュッセルの町並みより、人々に興味がある。ぶっきらぼうで、親切で、通過者にはさほど興味はないだろう。それはわたしも同じだ。
 一時間だけ横になって、小便小僧を観に行く。予想通り、という感想。それ自体より、うれしそうに写真を撮る人々が楽しい。あたりには土産物屋があふれて、わたしもゴブラン織りのポーチを手にして、また散策して、雨は続いて、傘はささずにパーカーのフードをかぶっていた。部屋に戻る、鳥の鳴き声が届く、午後七時に眠る、深夜0時に目が覚める、荷物の整理をして手紙を書いて、もうすぐ午前二時半。
 雨の石畳は快晴より、きれい。

3月26日(木)の断片
 相変わらず断片的な時間において、明け方四時にベッドに入り、六時には目が覚める。粛々と荷物をまとめる。眠りに関しては恋人が隣にいなければ本当に困難だ。まもなく一緒に暮らして丸六年経つ恋人、最近、結婚しようかどうかという話を頻繁にするのだが、六年一緒に暮らして平穏なのだから結婚してもしなくてもしあわせだ(彼はわたしの詩を読まない)。
 クロワッサンをコーヒーで流し込み、九時にチェックアウト。この部屋は二一一号室だった。
 地下鉄ブレス駅から中央駅へ乗り継ぎ、九時四十四分の列車に揺られて空港へ向かう。まもなく二人がイスタンブール空港から到着するだろう。
 断片、速度、増して、上くんと大島さんがやってきた。まずは中央駅へ。地下にあるコインロッカーに三人そろって荷物を押し込み、フェスティバル前日、モンスに行く前に観光をする。過剰な倹約家である上くんが観光したいだなんて、意外。
「俺はこういう時しか海外にこないから」なるほど。
 両替所を探しつつ、サン・ミッシェル大聖堂と漫画博物館、マグリッド美術館でランチ。初の渡欧で機内ではほとんど眠らなかったと大島さんは言うが、元気そう。雨と風が強く、スーパーマーケットへ行ってお菓子や水を買って中央駅からモンス駅へ。一時間強。こういう風に若い詩人たちとヨーロッパに滞在するなんて、わたしもはじめてで、皆、そわそわしている。上くんは列車の中でお菓子ばかり食べている。

3月27日(金)断片
 正直に記すと、これを書いているのは四月十二日の日曜日、リュブリャナからピランへ向かうバスの中。モンスでの日々があまりに濃密で、相変わらず断片的な眠りの日々で、フェスティバルに夢中になっていたのもあるけれど、全く時間に余裕がなかったから。
 昨夜、モンス駅に到着したわたしたちをアランさんと翻訳してくれたスワさんがあたたかく迎えてくれた。スワさんはスリムで実に整った顔立ちをしている。アランさんはこのフェスティバルに参加するまでメールでしかやり取りしていなかったのだが、どっしりと体格のいい男性で、チャーミングなおじさん。おじさんなんて呼び方は失礼かもしれないけれど、そう呼びたい。
 三人で、日本からのお土産として伊藤園のお茶と干菓子を渡す。宿にチェックインして、まずは部屋を整えてから、三人で食事をする。朗読について少しだけ話もする。疲れもあって、はやめに解散。大島さんは自制してビールを一杯だけ呑んでいたのに、上くんは二杯呑んで、且つ、わたしが食べ残したポテトも食べていた。マッシュルームがおいしいポークステーキを食してエスプレッソ。
 まずは朝焼けが見たいと願う。それは、この町を知るひとつの手段だ。三時間眠って起きて、再び三時間眠って、カーテンの外をのぞけば少し明るんでいる。慌てて着替えて、カメラを手に宿を飛び出す。到着したのが暗くなってからだったからわからなかったけれど、モンスは小さくて美しい町。きちんと都市なのに騒々しくない造りで、凝縮されている。
 立派な市庁舎が建つグラン・プラスを黄色のバスが通過していく。住人にとっては見慣れたものなのだろう。朝の光がいきよいよく強まって、感情が増して、陰が伸びて、複数の鳥が鳴いた。郵便局の場所を確認して部屋へ戻る。たしか八時に集合して三人で宿の朝ご飯を食べたのだけれど、上くんがとにかく大量に食べて、りんごもかじっていたことを覚えている。
 そうして会場のメイソンフォーリへ。元々、学校だったのを改築して文化施設にしたこの場所は、音が響く不思議な体育館のようだ。うすら暗くて、ライブハウスみたい。ここで、三日間、朗読をするんだ。イベントのTシャツを受け取り、自分たちの出演時間を確認。昼過ぎからはじまって、わたしたちの出番は夜の手前。体力が不安だったけれど可能な限り観ようと決意して、ひんやりした椅子に座る。モンスはの公用語はフランス語らしいから、フランス語で朗読する詩人たちの字幕はない。ドイツ語で朗読する詩人たちには、ドイツ語とフランス語の字幕。内容がわからなかったのだけれど、これは、三分以内の声の戦い。声だけでどう魅せるか、そう思って、もとより自信がないわけではないけれど、当然ながら世界にはこんなに「聴かせる詩」があるんだと、善く、打ちのめされた。とりわけ感動したのはスペインのバルセロナからきたチーム。三人がバランス良く、音楽のようであり、寡黙であり、激しくもあった。きちんと変化する個性があった。
 日本チームだけ英語とフランス語の字幕が流れたから、伝わりやすかったかもしれない。上くんは詩のタイトルだけで既に笑いが起きていたから。わたしは「終焉#8」を朗読した。いつも以上に、丁寧に、ゆっくりと。声が線になって横切るように、点になって満ちるように。温度が下がっていくように。
 緊張にあふれてしまうけれど、終わってから「こんな朗読があるなんて」と声をかけてもらって、嬉しい。一つのテーブルに複数の国の詩人たちが座って、詩について朗読について喋った。語り合った。と書きたいところだが、わたしは疲れて英語を聞き取る能力がひどく落ちてしまっていた。大島さんは英語がとても上手だと知る。
 宿への帰路、三人だけでどこかお店に入りもう少しだけ話をしようかと思ったけれど、大島さんが明日のために休むと言って、わたしも同意して、はりきっていた上くんはがっかりした様子でひとり、どこかへ消えていった。
 眠りにつく前に恋人にエアメイルを書いて、今夜も断片的な浅い眠り。短時間で入り組んだ夢もみる。

3月28日(土)の断片
 お化粧もしないまま朝食のために向かうと、大島さんと遭遇する。大島さんは全てにおいて自制していて大人だと思う。わたしのほうがよく食べているから。クレープにブルーベリーのジャム、スクランブルエッグ、チーズ、ハム、それからコーヒー二杯。
 せっかく時間が重なったのだから、大島さんと少しだけ町を散策する。昨日の朝焼けの時に、隣の隣がスーパーマーケットだと気づいたから、土産ものをひやかして水を買う。マヨネーズとはちみつとチョコレートがおいしいらしい。ビールも有名なのだろうけど、わたしはアルコールが一切呑めないから、パス。恋人にあかしあのはちみつとレモン入りマヨネーズと板チョコレートを買う。その土地を知ってから経験したいのだ、あらゆること。食も、言葉も。だから長く滞在することに決めて、しかし眠りにおいてわたしは不器用すぎた。人柄や気候。フェスティバル参加者同士だけではなく、国まるごと、人々全て。もちろん全ては無理だとしても、その努力はしたいし時間を費やしたい。曇り空のこの日、突風が吹いたり雨もぱらぱら舞ったけれど石畳がきれい。公園や、家々が構える様もきれい。午前中の散策を終えて部屋に荷物を置き、二日目の会場に向かう。今日も出番は夜。
 昨日より時間が流れるのがはやく、断片的な日々をあらわしているようだった。前日より血の気がのぼって、わたしは「新世界」を朗読。血の気がのぼっていたから余計なことを考えなくてすんだけれど、昨日は確認した字幕の英訳タイトルをこの日は確認しなかった。マイクから続くシールドを丁寧にほどいた。右の掌でマイクを抱えた。身体全体でマイクを抱えた。自分のお母さんみたいになって、昨日から続いて日本チームはラウンド一位で準決勝に進む。夕食にデザートまで出てきて、わたしは空気が抜けた風船みたいになって、会場ではサッカー中継が流れたのちにダンスがはじまって、雨の中、パーカーのフードを深くかぶって部屋に戻る。恋人の顔を少しだけ確認する。テレビをつける。
 疲弊しきっていたけれど、声を出した時の高揚といったらなくって、沈黙すればするほどの言葉があふれていくと感じる。眠りにおちて、目を開いて、眠りにおちて速度が増して、明日でモンスの日々が終わってしまう。

3月29日(日)の断片
 三月の最後の日曜日はサマタイムへと時間がきりかわる日。一時間を損したような気持ちになって、気づいたらすっかり朝。明日にはこの町を去るのだと思ったらさみしいが、今日の朗読をしっかりおこなって、できれば決勝まで進みたい。そのために、ここに、きたから。そのために、ここに、きたのだけれど、一番とかそういうことよりも、讃え合うことに感激を覚えていた。
 初日、予選一回目。二日目、予選二回目。今日が準決勝と決勝の日。戦うって、得点とか内容とかはもちろん大切だけれど、どれだけ参加している詩人たちを愛せるかなのかもしれないと考える。愛する愛さないはわたしの日々にとってひどく重要で、フェスティバルがはじまる前には存在すらしなかった人々がわたしの中にたちあがって声を出す。声をかける。存在していたとしても知らなかったら存在していないと同義で、知らないことはわたしによって、無知は時折美しいけれど知っていたほうが良いことはたくさんあって、朗読の大会は知らなかったことで、この旅で知った大きなことだったのだ。記憶が断片だったとして、眠りが浅かったとして、食事を摂っていても知らないことは知らずに知っていることは血になって身体をめぐる。
 結論から書いてしまえば、わたしたちは準決勝で敗退したのだけれど、出番のない決勝もしっかり楽しんだし、声をかけあったし親しくなったバルセロナチームは二位だった。彼らのパフォーマンスをたくさん観ることができて幸福だった。また雨が降っていた。ぽつぽつではなくきちんと降っていて、速度が増して、讃え合うわたしたちは明日には飛行機に乗ったり列車に揺られて移動する。徐々に忘れていく。名前も、詩の内容も、声も。何を食べたのかも、どんな視線を交わしたかも。笛をふいて応援したことはなかなか忘れそうにないけれど、この三日間を過ごした空気と意味みたいなものは身体をめぐっていってわたしは明日からベルリンに十日ほど滞在して、リュブリャナで三日過ごしてピランに移って、リュブリャナに戻ってそれから帰宅するから血肉が育って、誰の声を自分の喉にしめらせて懐かしいドアを開くかは決め損ねていた。
 雨が続いている。上くんが、わたしが食べ残したパンを食べている。大島さんはドイツからきた詩人とお喋りしている。隙間をぬってわたしは部屋に向かって、浅い呼吸のまま浅い眠りに飲み込まれていく。臆病だからはやすぎるのだ。チェックアウト。

予選ラウンド1
(大島健夫9:15~ 橘上24:40~ 三角みづ紀39:20~)