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田中郁子『雪物語』

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たどりつけば憶う


去る日には百日草の花があかい
カラスアゲハがふるえながら蜜を吸っている
山と山に囲まれた辺境があった
(「ノドの地」より)

土を耕し、糧を得る山あいでの暮らしのなかで書くことが生きる力となり、老いと孤独、闇を深く見つめる眼差しは、自然そして生命のエロスとかがやきをともに見つめ続ける。大地と天に聖なるものへの光を託す26篇。


【著者の言葉】

 いつか、ゆっくりと自分の時間と自分の部屋が持てると思っていたが、未だにドタバタとした農家での生活のまま七十代になってしまった。けれど七十代が二十代より幸せが薄いとも思っていない。朝日も美しいが夕日も美しいとしみじみ痛感している。生きてきて思い浮かぶことは、七つ目の詩集が持てることと、最晩年の病気の母を、八年間、自宅介護できたことである。その八年間は長く苦しかったが、母の生涯を知らされる、またとないよい機会だったと思っている。人はよく働き、よく老い、よく病み、天に召されると誰かが言った言葉どおりの生涯だった。亡くなる一年前ぐらいのこと、わたしは、ネタキリの母に聞いた、「かあさん、今までで一番たのしかったことはどんなこと?」すると「楽しかったことなど何一つなかったよ」、それは私にとって忘れられない言葉となった。大正生まれの母は、岡山県北の農家に嫁ぎ、太平洋戦争、戦後を駆け抜けてこの世を去った。古い紙切れに短歌が残っただけで。けれどそこには、私の知らない母の思いが綴られていた。戦時中、都会から二家族が疎開してきた。母は、日ごとの食糧のために骨身を削って働いた。またある日、母は告白するように、さりげなく言った。「疎開家族が十一人増えて、オカユばかりで、空腹で働けず、土蔵に貯えてある、砂糖、みそ、塩を口にして飢えをしのいだが、とうとう見つかってひどく叱られた……」と。
 母は私の望みは大抵かなえてくれた。母の生涯の悲しさ無念さえを、解き放つごとくに、私の心の中に芽生えてくるものがあった。土蔵が出てくる作品は、母をデフォルメしたものである。そして、皮肉なことに疎開してきた二家族ともにクリスチャンだった。都会生活しか知らない祖母は貧しい廊下で讃美歌をうたい続け、母は汗と涙で田畑や山野で働き続けたのである。この時、私が聖書に近づくほどの影響を受けていたのは事実である。

本体2,200円+税
A5判上製・98頁
ISBN978-4-7837-3265-5
2011年9月刊

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