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編集部から

斎藤紘二『海の記憶』新刊インタビュー

2011年08月26日

広島と長崎の原爆問題に正面から向き合った『二都物語』から2年。沖縄の戦禍の記憶を歌い上げた詩集『海の記憶』が7月末に刊行されました。昨年2010年は沖縄戦終結65周年の年でもあり、ヒロシマ・ナガサキからオキナワへと、二冊の詩集を繋ぐ想いを斎藤紘二さんに書面でうかがいました。

愚者の楽園

 思い出すがいい
 ぼくらの住むこの祖国を
 愚者の楽園と呼んだ男がいたことを
 (「愚者の楽園」より)

ヒロシマ・ナガサキの原爆をテーマにした詩集『二都物語』 の作品を書きながら、次は沖縄を描こうと決めました。それは普天間基地移転に関連して、学生のころ関心を抱いていた祖国復帰運動以降の沖縄の基地問題を、自分はどこか他人事のように考えていたのではないか、という反省に立ってのことです。ヒロシマ・ナガサキも沖縄も、1945年で終わっているのではなく、その後の66年間、まさに自らの問題として存在しつづけているという自覚。これが私には欠落していたのではないか。「愚者の楽園」の一節には私のそのような気持ちが反映されています。

『二都物語』と『海の記憶』に共通するひとつのテーマは、その形態は異なるものの、人間の「差別」という問題です。勿論、この問題の背後には戦争という大きな問題があって、それとどう向き合うか、私たちは真剣に考えなくてはなりません。私は時々、カントの『永遠平和のために』を読み返しますが、およそ300年前の、世界最高峰の哲学者のシンプルで美しい平和への願いがなぜ実現されないのか。それを不思議と思わない人々が圧倒的に多いのはなぜか。私の2冊の詩集が、そういう人々の心の中に、多くの疑問符を貼り付けることになればいいのですが。

非‐当事者が発信する

原爆の詩は峠三吉以来、被爆者によって書かれてこそ意義がある、といったような雰囲気があったように思います。『二都物語』を出した後で知ったのですが、詩人・浜田知章さんは「被爆していない詩人こそが、原爆詩を世界に発信しなければならない」と述べています。そうだとすると、被爆者ではない私が書いた『二都物語』にもそれなりの意味はあるのだろうと思います。

しかし沖縄に関する詩を、本土の詩人が本格的に書いた例はあまり多くはないように思います。それは本土の詩人が、遠い沖縄(これは距離的に遠いということ以上に、人間の心の中で遠い存在であったということですが)のことを何かしら他人事のように考えていたからかも知れません。さらにまた、戦後沖縄の置かれた歴史的特殊性が、沖縄に関する詩を書くことを躊躇させたのではないかとも思います。いずれにしても、東北人である私が、例えば「千の名を書く」という作品の中で、家族を扼殺せざるを得ない沖縄人の立場で語るとき、そこには東北人 ・沖縄人を超えて、ひとつの極限状況に置かれることになった人間の普遍的な苦しみと悲しみが共有されています。けれども、私はその苦しみと悲しみの洞窟に閉じこもることを拒否します。そして、そのような状況を二度とつくりださないために、詩人としての役割を果たしたいと考えています。そうした思いを最もつよく表している作品は「さとうきび畑の祈り」です。私たちの父祖が自ら招いた不幸、という無念さが私の中にはつよくあります。

言葉を離陸させて

この詩集では沖縄弁ではなく、標準的な日本語を使いました。私が「美しい日本語」と言うとき、その美しいには「凛として」という修飾語がふさわしい、と考えます。つまり、「凛として美しい日本語」というイメージです。それでは、「凛として美しい日本語」とは何か? それは詩人の文明批評精神・人生観・世界観(思想性と呼ぶこともあるでしょう)を包摂する、緊張にみちた言葉のことです。尾花仙朔さんもほぼこのような意味で「美しい日本語」と言っているようです。

茨木のり子さんはこう述べています。「いつも思うのですが、言葉が離陸の瞬間 を持っていないものは、詩とはいえません。じりじりと滑走路をすべっただけでおしまい、という詩でない詩が、この世にはなんと多いのでしょう」。私としては、これからも自分が定めた言葉の規範に従って詩を書きつづけることにこだわりたいと思いますが、結局のところ、日本語の難しさとは日本語の豊かさの裏返しなのだ、と気づかされます。少なくとも、今は鶴岡の墓に眠る茨木さんに、「あなたの詩のその言葉は離陸してないわよ」と言われないように、できることなら、言葉がしっかり離陸して、そして美しくまた力強く飛翔するようにしたいものだと思っています。


斎藤紘二(さいとう ひろじ)宮城県仙台市在住。
詩集に『直立歩行』(第40回小熊秀雄賞)、『二都物語』。
日本現代詩人会、宮城県詩人会会員。